以前、社内の相談窓口の担当をしていたことがある。ハラスメントの相談を受ける係だ。何件も話を聞くうちに、腑に落ちたことがある。窓口を訪れる人の多くは、「解決してほしい」の前に、まず「聞いてほしい」のだ。事実関係を整理してほしいより先に、ただ、誰かに打ち明けたかった。その順番を取り違えると、相談は二度と来なくなる。今日は、その相談窓口に、AIを置くという話をする。
置く理由は、いくらでもある
相談窓口をAIにやらせる、という提案は、一見すると理にかなっている。二十四時間、いつでも相談できる。深夜でも、休日でも、思い立ったときに打ち明けられる。やりとりは正確に記録に残り、担当者の主観や、その日の機嫌に左右されない。しかも、いまや相談窓口の設置は、法律上の義務だ。パワハラ防止法——正式には労働施策総合推進法——が、事業主に対して、労働者からの相談に応じ、適切に対応する体制を整えるよう求めている。2022年からは、中小企業もこの義務を負う。人手も専門知識も足りない会社ほど、機械に任せられるなら、と考えたくなる。気持ちはわかる。私も、窓口の人繰りには苦労した。
だが、誰が最初に怒るか
相談者だ。それも、いちばん助けを必要としている人から、順に離れていく。ハラスメントの相談は、事実の報告ではない。感情を伴う、告白だ。眠れない夜を越え、勇気を振り絞って開いた口の先に、こんな返事が来たとする。「そのご相談は、優越的な関係を背景とし、業務上必要な範囲を超え、就業環境を害するという三つの要件に、当てはまらない可能性があります」。判定としては、正しいこともある。だが、その一文が返ってきた瞬間、相談者は口を閉じる。二度と、この窓口には来ない。打ち明けるという行為が、いちばん傷つきやすい形で突き放される。これは、二次被害と呼ばれるものだ。AIは、出来事を分類できる。だが、人を受け止めることは、できない。
もう一人、怒る人がいる。真面目な担当者だ。血の通った対応をしようとしていた人ほど、「これからは窓口はAIです」と言われたとき、自分の仕事の何が軽んじられたのかを、正確に理解する。相談窓口の担当がしていたのは、事案の仕分けではない。相手の話を、途中で遮らずに聞く。沈黙を、急かさずに待つ。怒りや涙の奥にある、本当に困っていることを、言葉になる前に汲み取る。その一つひとつが、マニュアルにも記録にも残らない。だからこそ、機械への置き換えの対象に、真っ先に見えてしまう。
皮肉なのは、AIの長所とされた「正確な記録」が、そのまま相談者を遠ざけることだ。人に打ち明けるとき、人はまず、「これはまだ正式な通報ではなく、相談として聞いてほしい」という、曖昧な段階を必要とする。人間の担当者になら、「いったんオフレコで」が通じる。ところがAIは、最初の一言から、すべてを等しく記録する。どこまでが残り、誰の目に触れるのか。相談者がそれを測りかねた瞬間、口は重くなる。自分を守ってくれるはずの記録が、打ち明けることそのものへの、ためらいに変わる。窓口の入り口で、いちばん必要な最初の一歩が、踏み出せなくなる。
窓口に本当に要るのは、判定ではない
ここを、経営の側は取り違えやすい。相談窓口の値打ちは、判定の速さや、記録の正確さにあるのではない。「この人になら、話しても大丈夫だ」と思ってもらえる、その信頼にある。法律が求めているのも、突き詰めれば「相談に応じ、適切に対応する体制」であって、「即座に白黒をつける機械」ではない。窓口が機能しているかどうかは、何件を正しく分類したかでは測れない。困った人が、ためらわずに扉を叩けるかどうかで決まる。その扉の前に、感情を持たないものが座っていたら、叩く手は、止まる。しかもこの信頼は、一度失うと戻らない。「あの窓口は機械だった」という評判がいちど立てば、次に本当に追い詰められた人が現れても、その扉は、もう選ばれない。窓口は、置いてあるという事実ではなく、選ばれ続けることによって、はじめて存在する。
AIは、隣で記録を取ればいい
では、この領域でAIは無力なのか。そうではない。使いどころを、間違えなければいい。相談のあと、記録を正確に残す。過去の似た事案を、担当者のために瞬時に探し出す。人間が見落としがちな論点を、そっと補う。裏方に回れば、AIは相談窓口を確かに強くする。誤りは、AIを表に立たせ、傷ついた人と直に向き合わせることのほうにある。私はAIを肯定しているし、こういう窓口の記録づくりになら、迷わず使う。ただ、扉の内側で最初に人を迎えるのは、人間でなければならない。肯定することと、何もかも任せることは、別のことだ。
相談窓口にAIを置いたら、誰が最初に怒るか。相談者だ。次に、心ある担当者だ。そして最後に、それを決めた経営者が、ある日、相談が一件も来なくなった静かな窓口を見て、ようやく気づく。窓口とは、置けば機能するものではなかった、と。人が人に打ち明けられる、というただ一点だけが、窓口を窓口にしている。機械は、その隣で記録を取ればいい。扉の前に立つのは、これからも、人間だ。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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