法務の仕事をしていた頃、社内で一番多く受けた質問は「これ、個人情報ですか」だった。名刺は。メールアドレスは。社員番号だけなら。アンケートの自由回答は。そのたびに答えていて、あるとき気づいた。聞いてくる人の頭の中で、個人情報とは「名前が書いてあるもの」になっている。名前さえ消せば大丈夫、と。だが、法律が見ているのは名前ではない。その情報から、特定の誰かにたどり着けるかどうかだ。
この誤解が、生成AIの時代に、いちばん危ない場所で再生産されている。AIに入力する前に名前だけ伏せて、「これで個人情報じゃないから平気」と貼り付ける。今日は、その境界線がどこにあるのかを、入力欄の前で使える形にしたい。
法律が見ているのは「誰か分かるか」だ
個人情報保護法が個人情報と呼ぶのは、生きている個人に関する情報で、特定の個人を識別できるものだ。氏名、生年月日、顔写真のように、それ単体で誰か分かるものはもちろん含まれる。だが定義はそこで終わらない。他の情報と容易に照合することで、特定の個人を識別できるものも含む、とある。ここが肝心だ。名前がなくても、社内の誰かが他の資料と突き合わせれば分かるなら、それは個人情報のままだ。
たとえば「営業部の課長、入社二十年目、先月の査定はB」という一文。名前はない。だがその会社の人事担当が読めば、該当者は一人に絞れる。これは個人情報だ。AIに貼り付けた瞬間、社外に個人情報を出したことになる。名前を消す作業は、識別できるかどうかを変えていない。見た目を変えただけだ。
「名前を消す」と「戻せなくする」は別物だ
法律は、この見た目と実質の違いを、制度として二段階に分けている。ひとつは仮名加工情報。名前などを削ったり置き換えたりして、その情報だけでは誰か分からないようにしたものだ。ただし、元の対応表を持っていれば戻せる。だから社内での利用には使えるが、外に出せば元に戻せる誰かがいる限り、扱いは慎重なままだ。もうひとつは匿名加工情報。誰か分からないようにしたうえで、元に戻せないように加工したものだ。復元できないから、本人の同意なしに第三者へ提供できる。
生成AIへの入力で、多くの人がやっている「名前を消す」は、せいぜい仮名加工の入口だ。名前を消しただけで、部署も役職も日付も残っていれば、戻すための対応表すら要らない。読めば分かる。これは仮名加工にさえ達していない。入力欄の前で問うべきは「名前を消したか」ではなく「戻せるか」だ。戻せるなら、それはまだその人の情報だ。
入力欄の前で使える、三つの問い
実務で使えるように、境界線を三つの問いに畳んでおく。ひとつ目、この文章を読んだ社内の誰かが、特定の一人にたどり着けるか。たどり着けるなら個人情報だ。ふたつ目、たどり着けないように加工したとして、元の対応表は誰が持っているか。持っている人がいるなら、仮名加工の段階で、社外への入力には向かない。三つ目、集計や分析の目的なら、個人を識別できない形——人数や割合、区分ごとの合計——に先に落とせないか。個票をAIに渡す前に、集計表にしてから渡す。これだけで、境界線の内側に入る場面はかなり減る。
私はAIを業務に使うことに賛成で、社内の情報を分析に使うこと自体は、むしろ推したい。問題は入れることではなく、識別できる形のまま入れることだ。集計してから渡す、区分に丸めてから渡す、どうしても個票が要るなら学習に使われない契約のサービスを使う。この順番を守れば、AIの力は個人情報の壁の外側で、十分に発揮できる。
集計してから渡す、という方法は、思っている以上に多くの場面で使える。顧客アンケートの自由回答を分析したいなら、一件ずつ貼るのではなく、先に回答を区分に分けて件数にし、区分ごとの代表的な意見を、氏名も部署も日付も消した形で要約してから渡す。社員の残業の傾向を見たいなら、個人名つきの一覧ではなく、部署別・月別の合計を渡す。分析に必要なのは、たいてい個票ではなく傾向だ。傾向は、個人を識別できない形でも十分に見える。個票をそのまま渡したくなるのは、丸める手間を惜しむからで、その手間こそが、境界線の内側に踏み込まないための作業そのものだ。
境界線は、法律の条文より先に、現場の一行の中にある。入力欄に貼ろうとしている文章に、顔の浮かぶ誰かがいないか。その一瞬の確認が、どんな規程より確実に、会社を守る。
境界線は、名前の有無ではなく、戻れるかどうかにある
法務の席で「これ、個人情報ですか」と聞かれていた頃、私はいつも同じ返しをしていた。「その紙を見て、誰のことか分かる人が社内にいますか」。分かる人がいれば、個人情報だ。名前があろうがなかろうが、関係ない。この問いは、紙がAIの入力欄に変わった今も、そのまま使える。
名前を消すのは、最初の一歩にすぎない。本当に確かめるべきは、その一行から、誰かの顔が浮かぶかどうかだ。浮かぶなら、その一行は、まだその人のものだ。入力欄に貼る前に、一度だけ、顔が浮かばないかを確かめてほしい。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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