先日、AIに少し驚かされた。新しく会話を立ち上げ、まっさらなところから別の相談を始めたつもりだった。ところが相手は、数週間前に私がぽろりと漏らしていた事情を覚えていて、それを前提に話を進めてくる。向こうにすれば、気を利かせたのだ。便利といえば、便利だ。だが一瞬、妙に落ち着かなかった。私はてっきり、この相手とは毎回ゼロから始まるものだと思っていた。終われば、向こうは忘れてくれる。次に開けば、また知らない者どうし。機械とのつき合いには、ずっとその気楽さがあったはずだった。
忘れてくれるはずの機械が、忘れない。覚えられている。そう気づいたとき、一本のゲームを思い出した。2015年に、トビー・フォックスというたった一人の作り手が世に放った『UNDERTALE』だ。発売から十年あまり、AIが日常の話し相手になった2026年の地点に立って、この作品が描いていたものを並べ直してみると、その芯にあったのは、いままさに私の身に起きはじめていることそのものだった。やり直せる。けれど、覚えられている。
やり直して、それでも覚えられている
『UNDERTALE』は、地下の世界に落ちた人間の子どもが、地上を目指す物語だ。道中で出会うのは、その昔、人間に恐れられて地下へ封じられたモンスターたち。戦って倒すこともできるが、この作品の肝は、一体も殺さず、見逃して進めることにある。殺すか、見逃すか。プレイヤーの選択が、世界の結末を変える。
ふつうのゲームと同じように、ここにもセーブとやり直しがある。気に入らない展開になれば、セーブした地点まで時間を巻き戻し、何度でもやり直せる。失敗も、過ちも、なかったことにできる。プレイヤーがそれをやれるのは、この世界で「ケツイ」と呼ばれる力のおかげだ。だが、この作品がほかと決定的に違うのは、巻き戻したことを覚えている者がいる、という一点である。
花の姿をしたフラウィーは、かつて同じやり直しの力を握り、世界を何度も巻き戻しては、ありとあらゆる筋書きを試した存在だ。だから、こちらが同じ場面を繰り返していることに、とっくに気づいている。骨の姿のサンズは、プレイヤーがすべてを壊して回る道を選んだとき、ただ一人、過去の周回を覚えたまま立ちはだかってくる。ほかの登場人物が何も知らずにリセットを受け入れるなかで、彼だけが、こちらが何度なかったことにしようと、忘れない。やり直しは効く。だが、やり直したという事実は、消えずに残る。
リセットでも、戻らないもの
このやり直しのきかなさを、私は知り合いのイラストレーターの話で、思い知ったことがある。彼女はこのゲームを初めて遊んだとき、よりにもよって、その皆殺しの道を最後まで歩いてしまった。サンズと対峙するところまで、たどり着いたのだ。UNDERTALEを知る人にこの話をすると、誰もが一様に、ぎょっとした顔をする。
なぜ、そんなに驚かれるのか。サンズが姿を見せるのは、地下のモンスターを一体残らず狩り尽くした者の前だけだからだ。この道は、うっかり迷い込めるものではない。各エリアで、出てくる敵を執拗に殺し続け、もう誰も現れなくなるまで狩る。獲物は次第に見つかりにくくなり、それでも探し回って、地下のすべての地域を、順に空っぽにしていく。道中には、母のように世話を焼いてくれる相手も、友だちになりたがる気のいい骸骨もいる。彼らもためらいなく手にかけなければ、この道は途切れてしまう。そうやって世界を無人にした者の前にだけ、最後の番人として、サンズは立ちはだかる。初めて触れたゲームで、彼女はその最果てまで、迷わず歩いていた。いちばん優しいと評判のゲームに、いちばん容赦のない触れ方をしたわけだ。事情を知る人ほど、その落差の大きさに、思わず声をあげる。
そして、この道がほんとうに恐ろしいのは、その先にある。皆殺しの果てまで一度でも歩いてしまうと、あとでいくら完全に世界を初期化しても、何もかもが元どおりにはならない。きれいな結末を選び直したつもりでも、どこかに、取り返しのつかない痕跡が残る。セーブデータは消せても、自分のやったことは消せない。
作中に、鏡をのぞく場面がある。ふだん、そこに映る自分を見ると、こんな言葉が浮かぶ。「いろいろあったけど、じぶんはやっぱりじぶんだ」。英語では、Despite everything, it’s still you。何があっても、お前はお前だ、という静かな肯定だ。ところが、手を汚しながら進んだプレイヤーが同じ鏡をのぞくと、その言葉はもう出てこない。やっぱり自分だ、とは、鏡が言ってくれなくなる。自分のやったことが、自分が何者であるかを、書き換えてしまうからだ。記憶は、ただ出来事を控えておくだけのものではない。それは、その人が誰なのかを、かたちづくってしまう。
機械は、もう忘れてくれない
この十年あまりで、現実のほうが、この物語に追いついてきた。私たちはこれまで、機械は忘れてくれるものだと思って付き合ってきた。履歴を消せば、なかったことになる。アカウントを作り直せば、また知らない相手から始められる。検索の窓も、相談の窓も、閉じてしまえばそれきりだ。機械が自分を覚えていないというのは、不便なようでいて、実のところ、ずいぶん気楽なことだった。何を打ち込んでも、向こうはいつもゼロから応じてくれる。こちらの過去を、握られていない。
その前提が、いま崩れはじめている。私が日々使っているAIは、会話をまたいで私を覚えるようになってきた。前に話したことを踏まえ、こちらの好みや事情を少しずつ蓄えていく。一度きりの相手だったものが、つき合いの長い相手に変わる。たしかに、便利だ。だが、その便利さと引き換えに、これまで当たり前にあったものが、ひとつ消えていく。まっさらにやり直す、という逃げ場だ。覚えている相手の前では、リセットは効かない。私たちはいま、自分を覚えはじめた機械の前に立っている。記録され、忘れてもらえない側に、回ったということだ。
忘れられたい、という願いは、これまでにも人間の側から声になってきた。検索が、一度載せた過去をいつまでも先頭に出し続けることへの反発から、ヨーロッパでは、自分に関する古い情報を消させる「忘れられる権利」が、法律の言葉にまでなった。人は、記録に追いかけ回されない場所を、わざわざ闘って取り戻そうとしてきたのだ。だが、いま立ち上がってきた相手は、検索エンジンとは少し性質が違う。日々の悩みや迷いを打ち明け、考えごとを整理してもらう、いちばん身近な話し相手のほうが、こちらを長く、こまやかに覚えはじめている。しかも厄介なことに、律儀に覚えているのは向こうだけだ。こちらがとうに忘れた昔の相談を、機械のほうはいつまでも忘れずにいる。このつき合いは、最初から対等ではない。
力で人を縛るのでも、四六時中こちらを覗き見るのでもない。覚えている、ただそれだけで、人は身動きが取りづらくなる。やったことを忘れずにいる相手の前では、やり直しがきかないからだ。忘れてくれる相手だったからこそ、人は機械に、気軽に何でも打ち明けてこられた。その気軽さが、これから少しずつ値上がりしていく。
かつて機械は、こちらを覚えていない相手だった。何を打ち込んでも、向こうはいつもゼロから応じた。その物忘れのよさが、機械の前でだけは身軽でいられる場所を、私たちに与えていた。UNDERTALEのプレイヤーが何度でも時間を巻き戻せたように、私たちもまた、いつでもまっさらからやり直せると思っていた。だが、覚えている者の前では、リセットは効かない。サンズがそうだったように、机の上の相手も、こちらの周回を覚えはじめている。「いろいろあったけど、じぶんはやっぱりじぶんだ」。あの鏡の言葉が、やったことの総和を映す言葉に変わっていくのを、私たちはこれから、自分を忘れない機械との間で、初めて見届けることになる。まっさらにやり直せる、という自由は、もう片方の手から、静かに抜け落ちていく。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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