私がボーカロイドを最初に聴いたのは、子供に付き合ったのがきっかけだった。
正直に言う。最初は受け付けなかった。あの独特の合成音声が、私の耳には「音楽」として入ってこなかった。メロディはある。リズムもある。でも何かが足りない気がした。今にして思えば、その「何か」とは慣れ親しんだ人間の声だったのだが、当時はそこまで整理できていなかった。
それがどう変わったか。今日はその話だ。
尖った音との出会い
転機は、カゲロウプロジェクトだった。
じんというボカロPが手がけた楽曲群を、ある時期に集中して聴いた。私は「これはメジャーシーンでは絶対に生まれない音だ」と思った。商業的な文脈から完全に切り離されたところで、作りたいものだけを作った結果としての音。プロデューサーの意向も、レーベルの方針も、タイアップの都合も入っていない。その純度が、音に出ていた。
続けて聴くうちに、ボカロPという存在の個性が見えてきた。声が合成であることで、逆に作曲者の個性が前面に出る。人間のボーカリストがいると、その表現力や声質がどうしても曲の印象を左右する。ボーカロイドにはそれがない。メロディ、和音、アレンジ、歌詞——全てが作曲者の意図のまま出てくる。ある意味で、純粋な作曲者の音楽だ。
「加齢しないフロントマン」という存在
もう一つ、気づいたことがある。
初音ミクは老いない。
人間のアーティストは加齢する。声が変わる。体力が落ちる。スキャンダルが起きる。活動休止する。死ぬ。ファンはその変化と付き合いながら、アーティストへの思い入れを積み上げていく。それはそれで豊かな体験だ。
でもボーカロイドは違う。初音ミクは2007年のデビュー以来、ずっと16歳のままだ。声が衰えない。スキャンダルを起こさない。突然活動をやめない。その安定性の中で、何千何万という楽曲が積み重なっていく。
これはキャラクタービジネスとも違う。ミッキーマウスはディズニーが管理するキャラクターだが、初音ミクは不特定多数のクリエイターが使い続けることで成立している。あの存在様式は、音楽の歴史の中でかなり特異なものだと思っている。
抵抗が溶けた理由
私の中でボーカロイドへの抵抗が溶けたのは、理屈ではなかった。
ただ聴き続けたからだ。量が質を変えた。最初は違和感だったものが、ある時点で「この声じゃなければ成立しない曲」として聴こえるようになった。その変化は、自分でも驚くほど静かに起きた。
この経験は、AIが生成するコンテンツへの向き合い方を考えるとき、一つの参考になると思っている。拒絶は最初の反応として自然だ。でも拒絶を論拠にして判断を固定すると、その先が見えなくなる。
慣れることと、納得することは違う。でも慣れることで、見えてくるものがある。
次回は少し視野を広げて、クールジャパンの話を書く。政策と産業の話だ。個人の感覚論から離れて、少し硬い回になる。
株式会社スポルアップ CFO 加藤
AI・経営・数字まわりのことを、思ったことをそのまま書いています。
