ハラスメント研修を、これまでに何回受けただろう。
数えたことはないが、在籍した会社ごとに年1回か2回、名前を変えながら降りてきた。初期はセクハラ防止が中心で、時代が進むにつれてパワハラ、マタハラと対象が広がり、形式もeラーニングに置き換わっていった。集合研修の時代もあった。講師が壇上で「このケースはセクハラに該当すると思う方、手を挙げてください」と言い、参加者の半分が恐る恐る手を挙げ、もう半分は腕を組んで黙っている。あの微妙な空気を、何度も味わった。
では、あの研修のおかげで職場のハラスメントが減ったかと聞かれると、正直に言って実感がない。私自身が人間として変わったかと問われても、答えに窮する。何年も受け続けてこれだ。研修とは何なのだろうか。
一番記憶に残っている研修の話をする
以前の在籍先での話だ。その会社は株式公開の準備を進めている最中で、社内全体にピリピリした空気が漂っていた。上場審査に向けて管理体制を整え、数字を作り、組織を固める。経営幹部には相応のプレッシャーがかかっていた。
そんな中、ある取締役が内部通報制度を通じてパワーハラスメントの告発を受けた。言動に関する訴えだった。私は当時、コンプライアンスまわりの運営側にいたので、制度が動く過程を間近で見ていた。
対応として、経営幹部全員を対象にアンガーマネジメント研修が実施されることになった。告発された当人だけではなく、幹部全員が対象。個人の問題ではなく組織の課題として扱う、というのが建前だ。でも全員がわかっている。なぜこの研修が突然降ってきたのか。誰のせいで自分たちがここに座っているのか。
経営会議の場で、その取締役が泣いた。悔し涙だった。本人は「指導」だと思っていた。部下を育てるために厳しく接していた、と少なくとも本人はそう信じていた。しかし内部通報制度の構造上、通報された時点で「加害者」の位置に立たされる。弁明の機会は実質的にない。反論すれば「加害者の自己正当化」と受け取られるだけだ。制度は正しく機能した。でもその取締役には、なすすべがなかった。
公開準備のプレッシャーの中で、追い込まれていたのはその取締役も同じだった。厳しい言動の背景には、上場という期限に追われる焦りがあったのではないか。私は運営側として、制度が設計どおりに作動したことを確認した。通報は処理され、研修は実施され、報告書は作成された。でも帰り道にずっと考えていたのは、この一件で誰が救われたのか、ということだった。告発した側は、翌日も同じオフィスであの取締役と顔を合わせる。告発された側は、指導だと信じていたものを全否定された。組織は「対応済み」の記録を残した。制度は動いた。でも誰も楽にはなっていなかった。
研修は「やった」という事実のためにある
受講率98%、研修実施済み。年度末の報告書にはそう記載される。それが目的だ。行動の変化ではなく、実施の記録。もっと正確に言えば、何かが起きたときの免責材料だ。「弊社ではハラスメント防止研修を定期的に実施しております」——この一文を堂々と言えるようにするためのイベント。法律で義務化されている以上、やらなければならない。研修を企画する側の労力も知っている。だから担当者の努力を否定する気はない。でも「やったかどうか」が目的になった瞬間に、「効いたかどうか」は誰も問わなくなる。そして現状、ほとんどの企業で「効いたかどうか」は問われていない。
eラーニングの15分で人は変わるか
典型的なeラーニング研修を思い出してほしい。画面に動画が流れる。上司役の俳優が部下役に向かって「だからお前はダメなんだ」と言う。露骨すぎて現実感がない。ナレーションが「これはパワーハラスメントに該当します」と補足する。知っている。選択式のクイズに答える。間違えようがない問題ばかりだ。「研修を完了しました。お疲れ様でした」。15分。長くても30分。受講者は別のウィンドウで仕事をしながら動画を流し、クイズだけまともにクリックする。翌日にはどんな内容だったか覚えていない。翌年、まったく同じフォーマットの研修がもう一度降りてくる。
こう書くと研修会社を攻撃しているようだが、問題は研修の質ではなく構造にある。年に1回か2回、30分の講義を聞くだけで人間の行動が変わるなら、ダイエットも禁煙も苦労しない。健康診断で「太りすぎです」と言われた人が、翌日から生活を改められるか。無理だ。行動変容とは、そういうものではない。わかっているのに変えられない。それは研修を受ける側だけでなく、研修を企画する側も同じだ。「効果が薄いのはわかっている。でもやめるわけにはいかない。法的な義務だから」。この諦めの構造が、研修という制度の正体だ。
AIが変えられるのは「研修」ではなく「日常」だ
前回、AIはハラスメント相談の入口に向いていると書いた。被害者が「言えない」を「言える」に変えるための道具として。それは言ってみれば守りの話だった。今回はもうひとつの角度から書く。AIは加害者の側にも入り込める。もっと言えば、「自分が加害者になりかけている」ことに本人が気づくための道具になれる。
たとえば、メールやチャットを送信する前に、AIが「この表現は受け手によっては圧力に感じる可能性があります」と示してくれる仕組みを想像してほしい。上司が部下にメッセージを書き終えたとき、送信ボタンの横にさりげなく表示される。強制ではなく示唆。内容を収集するのでもない。書いた本人にだけフィードバックが返る。いわば自分専用のハラスメント感知器だ。
年に1回の研修で「こういう発言はダメです」と言われるのと、毎日のコミュニケーションの中で「今の言い方、大丈夫ですか」と問いかけられるのでは、行動への影響がまるで違う。ダイエットに例えるなら、年1回の健康診断ではなく、毎食の記録アプリだ。日常の中に組み込まれたとき、はじめて行動は変わる。
「そんなつもりはなかった」を減らすために
ハラスメントの加害者が口にしがちな言葉がある。「そんなつもりはなかった」。先ほど書いた取締役もそうだった。指導のつもりだった。嘘ではない。本当に悪気がない。自分の言動が相手にどう受け取られているか、想像が及んでいないだけだ。私自身も管理側として人と接する場面が長かった分、振り返れば「あのとき、あの言い方は相手にどう聞こえただろう」と思う瞬間がないわけではない。その場では気づかなかった。後になって、ふと考える。それが正直なところだ。
研修で「この言動はハラスメントです」と定義を教えても、目の前の自分の振る舞いとリストの事例を結びつけられない人が大半だ。あの研修スライドに出てくる「ダメな上司」と自分を同一視できる人間は、そもそもハラスメントをしない。問題は「自分は大丈夫」と思っている人の方にある。抽象的な定義と、具体的な自分の日常のあいだに、橋が架かっていない。
AIは、その橋を架けられる可能性がある。あなたの先週のチャットでこの言い回しが3回出てきました、この表現は受け手によっては威圧的に映ることがあります——そういうフィードバックは、年に1回のスライドより遥かに具体的で、遥かに自分ごとになる。
もちろん限界はある。「気づかせる」ことと「行動を変える」ことのあいだには距離がある。AIに指摘されても「うるさいな」と無視する人はいる。技術で人の性格は変えられない。でも今の研修が「やった・やらない」の二択で止まっているのに対して、AIは「気づいた・気づかない」の段階まで押し上げられる。それだけでも前進だ。
萎縮と気づきは、似ているようでまるで違う
ハラスメント研修を何年も受け続けて、私に残ったものは何か。正直に言えば、「この手の話題には気をつけなければならない」という漠然とした緊張感だけだ。それは行動変容ではない。萎縮だ。何を言ったらアウトかばかり気にして、結果的に当たり障りのないことしか言わなくなる。コミュニケーションの質が上がったのではなく、量が減っただけだ。
研修の目的が「問題を起こさないこと」に設定されている限り、行動は萎縮方向にしか動かない。本来の目的は、相手を尊重したやり取りが自然にできるようになることのはずだ。「気をつけなければ」と「気づけるようになった」は、外から見れば似た振る舞いに映る。でも内側はまったく違う。前者はブレーキで、後者はハンドルだ。
ここまで書いてきたことは、私がコンプライアンスの運営側で見てきた経験から考えたことだ。ハラスメントの現場は一つとして同じものがなく、組織の規模も文化も、当事者の関係性もすべて異なる。AIを入れれば解決する、という単純な話ではない。それぞれの現場ごとに、丁寧な判断がいる。
その前提の上で言う。AIが日常に入ることで、研修が与えてきたものがブレーキからハンドルに変わる可能性がある。何年分もの研修で手に入らなかったものが、毎日の小さなフィードバックで手に入るかもしれない。それは過大な期待だろうか。少なくとも、同じスライドをもう一周見せられるよりは、ずっとましだと思う。
次の成長に向けて、いま整えるべきことを。
AI、EC、マーケティング、採用、数値管理。
構想だけで終わらせず、実行できる体制へ。
まずは課題を整理してみるところから、スポルアップが実務目線で伴走します。
