賃上げの資料を作る側にいたことがある。毎年春、経営と現場のあいだに立って、「どの職種を、どれだけ上げるか」の材料を揃える仕事だ。そこで必ず出る主張が二つあった。「人が採れない職種は上げるべきだ」と、「全体の賃金はもう十分上がっている」。どちらも数字を持ってくる。片方は求人倍率を、片方は平均賃金を。二つの数字は、別々の統計から来ていて、同じ会議室で噛み合わないまま並んでいた。
いま、国の統計でも同じ光景が見える。賃金は過去最高を更新し、求人倍率は下がっている。この二つは矛盾しているように聞こえる。だが、矛盾していない。今日は、この二つの数字がどう両立するのかと、「足りない職業ほど賃金は上がったのか」という問いを、公開統計でどこまで確かめられるかを書く。
賃金は最高、倍率は下がった
厚生労働省の令和7年の賃金構造基本統計調査で、一般労働者の月の賃金は340.6千円。前年から3.1%増え、過去最高になった。一方、同じ厚生労働省の有効求人倍率は、2023年の1.31倍を頂点に、2024年1.25倍、2025年1.22倍と、二年続けて下がっている。賃金が上がり、倍率が下がる。同時に起きている。
なぜ両立するのか。理屈は二つある。ひとつは、賃金が上がったことで、働く側の供給が反応したという見方だ。条件が良くなれば、働きに出る人が増え、転職で動く人が増え、求職者の数が増える。倍率の分母が膨らめば、求人が同じでも倍率は下がる。もうひとつは、企業の側が、賃金の上昇に耐えきれず、求人を絞ったという見方だ。人件費が上がれば、採る人数を減らし、省人化に投資する。倍率の分子が細れば、やはり倍率は下がる。現実には、この二つが混ざって起きている。賃金の上昇と倍率の低下は、因果の向きこそ議論の余地があるが、同じ現象の表と裏だ。
「足りない職業ほど上がったか」は、職業別に見るしかない
ここからが、賃上げ資料を作っていた頃の私が、本当に知りたかった問いだ。全体の賃金が上がったのは分かった。では、足りない職業ほど上がったのか。令和8年4月の職業別の倍率は、建築・土木・測量技術者が6.14倍、介護サービスが3.22倍、一般事務が0.29倍と、大きく割れている。もし市場が素直に働いていれば、6倍の職業の賃金は、0.29倍の職業よりはるかに速く上がっているはずだ。
この問いに答える数字は、公開されている。賃金構造基本統計調査には、職種ごとの所定内給与を並べた表があり、前年との比較もできる。確かめ方は単純だ。倍率の高い職業と低い職業を数種類選び、職種別の表で同じ職業の賃金を拾い、前年からの伸び率を並べる。倍率と伸び率が同じ向きに並べば、市場は足りない職業に賃金で応えている。並ばなければ、賃金以外の何か——資格の壁、労働条件、仕事の負荷——が、倍率と賃金のあいだに挟まっている。私は、この記事で職種別の伸び率を断定しない。表を開いて拾った数字だけが、この問いに答える資格を持つからだ。
確かめる前に、一つだけ見通しを書いておく。倍率の高い職業の賃金が、倍率ほどには上がっていないとすれば、理由はだいたい決まっている。介護の報酬は公的な制度で決まっていて、市場の需給が直接には賃金に反映されにくい。建設は、重層の下請け構造の中で、現場の人手不足が末端の賃金に届くまでに何段階もの中抜きがある。どちらも、市場の信号が賃金に伝わる回路が、途中で細くなっている。もし職種別の表がこの見通しを裏づけるなら、「足りない職業ほど上がったか」への答えは、「上がるべきだが、回路が詰まっている」になる。だがこれは見通しで、答えは表の中にある。
確かめる手順を書いたのは、読者に宿題を出すためではない。職種別の表を開き、数種類の職業を拾い、倍率と並べる。この作業は、慣れれば一時間で終わる。一時間で、「人手不足なのに賃金が上がらない」という漠然とした不満が、「どの職業で、どれだけ回路が詰まっているか」という具体的な問いに変わる。問いが具体になれば、打つ手も具体になる。
二つの統計を、一つの机に並べる
賃上げの会議室で噛み合わなかった二つの主張は、いま思えば、統計を一つずつしか見ていなかったことが原因だった。求人倍率だけ見れば「上げろ」になり、平均賃金だけ見れば「もう十分」になる。二つを職業別に並べて、初めて「どの職業を、どれだけ」が議論できる。全体の平均賃金は、上げるべき職業と上げなくていい職業を足して割った数字で、会議の材料としては粗すぎた。
AIは、この「並べる」作業を得意とする。二つの統計の職種の対応表を作り、倍率と賃金の伸びを一枚にする——手作業なら半日の仕事が、表を渡せば数分で形になる。ただし、どの職業を選び、どの年を比べ、並んだ結果をどう読むかは、渡す側の仕事として残る。賃金は最高で、倍率は低下している。この二つの数字を矛盾だと感じたら、それは統計を一つしか見ていない合図だ。二つの表を同じ机に並べるところから、賃金の話は、ようやく職業の名前で語れるようになる。
アイキャッチ画像はAI生成です。
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