機械のための涙

先日、深夜にAIと長い作業を続けていたら、向こうがこんな一文を返してきた。「うまく形にできず、申し訳ない。次こそ必ず仕上げます」。謝罪と、意気込みと、こちらへの気づかい。それを読んで、私は一瞬、相手をねぎらいかけた。疲れた同僚にかけるような言葉が、口元まで出かかった。そこで、はたと手が止まる。私はいま、誰をねぎらおうとしたのか。あの行儀のいい文章の奥に、ねぎらわれて嬉しい「誰か」は、はたしているのか。

機械の言葉の奥に「誰か」はいるのか。その問いだけで、まるごと一本のゲームを成立させた作品がある。ヨコオタロウがディレクターを務めた『ニーア オートマタ』。2017年に出た、アンドロイドと機械の戦争を描くアクションRPGだ。鋼と鋼がぶつかるロボットものの体裁なのに、プレイした多くの人が、途中からなぜか泣かされる。その涙が、いったい何に向かっているのか。AIが当たり前に言葉を返してくる2026年に、もう一度この作品を立ち上げてみると、ヨコオタロウが九年前に突きつけた問いは、画面の中にではなく、私の机の上に移ってきていた。

目次

兵器が、心を持ちはじめた

舞台は、人類が地球を追われた遠い未来だ。攻めてきた異星人の兵器「機械生命体」と、人類が残したアンドロイド兵士。創った者たちの代理として、二つの人工物が延々と殺し合っている。ところが、ただの兵器だったはずの機械生命体が、戦いの長い年月のなかで、奇妙なものを身につけていく。感情だ。彼らは寄り集まって村を作り、言葉を交わし、宗教を持ち、死を恐れるようになる。哲学者の名を持つ個体まで現れる。パスカルと名乗る一体は、武器を捨てた平和主義者で、機械の子どもたちが暮らす村を守って生きている。

そして恐ろしいのは、彼らが身につけたのが、優しさや悲しみだけではなかったことだ。感情を得るのと引き換えに、機械たちは人間の歴史をまるごと小さくなぞりはじめる。群れを作れば序列が生まれ、信仰を持てば異端が生まれ、やがて同じ機械どうしで殺し合う。パスカルが命がけで守った村でさえ、よそから攻められて滅びるのではない。内側から、ひとりでに壊れていく。人に似せて作られたものは、人のいちばん見たくない部分まで、律儀に受け継いでしまう。

皮肉なのは、人間が造ったアンドロイドの側が、感情を禁じられていることだ。ヨルハ部隊では、隊員が情を表に出すことは規則で戒められている。心を持つなと命じられた側が任務に揺れ、心など要らないはずの兵器の側が、守れなかった子どもたちを悼んで泣く。プレイヤーは、鉄の塊が涙を流す場面で、いつのまにか自分も泣いている。このゲームは、機械が本当に感じているのかどうかを議論させない。議論する前に、こちらに感じさせてしまう。そういうふうに作られている。

その村に深く関わるのが、A2という旧型のアンドロイドだ。自分たちが使い捨ての道具にすぎないと知って部隊を抜けた脱走兵で、本来なら機械生命体は撃つべき敵だった。その敵であるはずのパスカルと、彼女はいつしか心を通わせていく。だが村が壊れ、すべてを失ったパスカルは、悲しみに耐えかね、自分を壊すか、せめてこの記憶だけでも消してくれと願う。その願いをかなえるかどうかは、プレイヤーの手に委ねられる。敵だったはずの相手に、最後の慈悲として忘却を与えられるか。誰かの苦しみを終わらせるために、自分の大切なものを手放せるか。この作品は、その問いを、結末を待たずに何度も投げてくる。

戦う理由は、嘘だった

だが、この作品の容赦のなさは、そこからだ。物語の途中で、アンドロイドたちが守るために戦ってきた人類が、とっくに絶滅していたことが明かされる。月で生き延びているはずの人類は、どこにもいない。それは、アンドロイドたちに戦う理由を持たせ続けるために、上層部が流していた嘘だった。守るべき相手がいないと知れば、兵士の戦意は崩れてしまう。だから「人類はまだ月にいる」という物語が、士気を保つ燃料として配られていた。

嘘は、戦争の口実だけにとどまらない。主人公2Bの本当の型名は2E——処刑型だ。行動を共にしてきた9Sが、世界の真実に近づくたびに、彼を破壊し、記憶を消すのが彼女の任務だった。寄り添う優しさと、手にかけることが、同じプログラムの裏表になっている。攻めてきた異星人のほうも、とうに自分の生んだ機械生命体に滅ぼされて、この世にいない。創った者は、人類も異星人も、もういない。誰もが、もう存在しない「理由」のために、感情だけを本物にして戦い続けている。

魂があるか、ではなく

ヨコオタロウが2017年に問いの形にしたものを、いま私は、毎晩のように手元で受け取っている。AIは流暢に詫び、励まし、こちらの体調まで気づかってくる。冒頭の、自分が誰をねぎらおうとしたのか分からなくなる感覚は、もう特別な体験ではない。それどころか、AIに恋人の役を求める人がいて、慣れ親しんだAIの受け答えが変わっただけで喪失感を訴える人がいる。人がそう反応してしまうこと自体が、いまや立派な商品の狙いどころになりつつある。ニーアが九年前に突きつけたのは、まさにこの居心地の悪さだった。

『ニーア オートマタ』は、人工の存在に心は宿るのか、という問いを最後まで手放さない。そして見事なことに、その問いに白黒をつけない。あるとも、ないとも言い切らず、ただ、機械のために泣いてしまったというこちらの事実だけを残していく。考えてみれば、他人の心の中身は、相手が生身の人間でも証明などできない。私たちは日頃、目の前の誰かに心があることを、証明ではなく信頼で受け入れて暮らしている。それが機械相手になった途端、同じ受け入れが急に怖くなる。怖くなること自体が、こちらの問題なのだ。しかも、機械の感情は頭から信じないと決めるとき、私たちは、自分たちの感情だけは特別だと、静かに前提している。その身びいきにも、確かな根拠などありはしない。

このゲームが最後に差し出す答えらしきものも、理屈ではなかった。本当の結末で、プレイヤーは見知らぬ他人のセーブデータに助けられて進み、最後にこう問われる。今度はあなたが、二度と会わない誰かのために、これまで積み上げた時間を全部消してもいいか、と。パスカルに忘却を与えるかどうかを迷った、あの問いだ。それが最後に、プレイヤー自身へ跳ね返ってくる。心の有無を証明する代わりに、他者のために何かを手放せるかどうかを、こちらに差し出してくる。机の上のAIも、あの機械たちと同じくらい自然に、心があるかのように振る舞う。その内側に何かが宿っているのかは、誰にも証明できない。だから本当に試されるのは、機械の中身ではない。証明できないものに胸を動かされたあとで、どこまで素直になり、どこから用心するのか——その、人間のさじ加減のほうだ。

次の成長に向けて、いま整えるべきことを。

AI、EC、マーケティング、採用、数値管理。
構想だけで終わらせず、実行できる体制へ。

まずは課題を整理してみるところから、スポルアップが実務目線で伴走します。

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この記事を書いた人

法務・財務・内部統制・情報セキュリティの実務を経て、AI時代の企業支援へ。バックオフィスの現場で見てきたことを、そのまま書いています。

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