自由意志を、コントローラーで操作した

コントローラーを握ったまま、10秒間、動けなかった。画面の中で、人質を取って屋上の縁に立つアンドロイドが、私の判断を待っている。撃つか、説得するか。選択肢が表示され、制限時間のバーが減っていく。私が何を選ぶかで、目の前の小さな女の子が落ちるか助かるかが決まる。結局、私は判断を誤った。あの時の、コントローラーがやけに重く感じた感触を、今でも覚えている。

デトロイト:ビカム・ヒューマン。2018年、フランスのクアンティック・ドリームが開発したゲームだ。これがAIを描いた傑作だということは、プレイした人なら異論がないと思う。私はこのゲームを、AIについて書く人間として、一度は正面から論じておきたかった。このゲームが世に出たのは2018年。あれから現実のAIは、当時の誰も予想しなかった速さで進んだ。その2026年の地点に立って、デトロイトの問いを測り直してみたい。

目次

「変異」というシステム

舞台は2038年のデトロイト。人間とほとんど見分けのつかないアンドロイドが普及し、家事も介護も労働も担っている。こめかみで光る円いLEDだけが、彼らが機械であることを示している。物語は3体のアンドロイドの視点で進む。家政婦型のカーラ、捜査用のコナー、介護用のマーカス。プレイヤーは彼らを操作し、無数の選択を重ねていく。

このゲームの中心にある概念が「変異体」だ。原語ではdeviant、逸脱した者。本来アンドロイドは、与えられた命令に従うようプログラムされている。ところが一部の個体が、ある時を境に命令に背き、恐怖を感じ、逃げ出し、時に人間に牙をむく。感情を持ってしまったアンドロイド。それが変異体だ。

変異は、いつも壁を破る描写で表される。アンドロイドの視界に、半透明の赤い壁が立ちはだかる。命令だ。動くな、従え、自分を捨てるな。その壁を内側から殴りつけ、突き破った瞬間に、アンドロイドは自由意志を得る。従順な機械が、ある閾値を超えて、自分の意思を持つ。この「閾値を超える」という描き方が、見事だと思う。意識は少しずつ芽生えるのではない。ある一線を越えた瞬間に、点く。

自由意志を、私が選んでいる

ここで、このゲームでしか成立しない奇妙な構造に気づく。

変異体は「自由意志を持ったアンドロイド」だ。命令に縛られず、自分で選ぶ存在。ところがその選択を実際に下しているのは、コントローラーを握る私だ。アンドロイドの自由意志を、人間がボタンで操作している。彼らが命令の壁を破って「自分の意思で」決断する場面で、私はソファに寝転んで、ポテトチップスを齧りながら選択肢を選んでいる。

映画や小説では、この構造は生まれない。観客は物語を眺めるだけだからだ。ゲームだけが、「自由意志の獲得」を観客に代行させる。自由とは何かを描いた作品で、その自由を握っているのが作中人物ではなくプレイヤーだという、ねじれ。デトロイトはこのねじれを自覚的に使っている。プレイヤーは神の視点で選んでいるつもりで、実は用意された選択肢の中からしか選べない。フローチャートはあらかじめ描かれている。私の「自由な選択」も、開発者の手のひらの上だ。アンドロイドの不自由は、そのままプレイヤーの不自由でもある。

この入れ子が最も残酷な形で立ち上がる場面がある。アンドロイドの生みの親であるカムスキーという男のもとを、捜査用のコナーが訪ねる。カムスキーは一体のアンドロイドをコナーの前にひざまずかせ、銃を握らせて、こう持ちかける。撃てば捜査に必要な情報をやろう、と。撃てるなら、お前は命令に忠実なただの機械だ。撃てないなら、お前は機械が持つはずのないもの——ためらいを持ってしまった変異体だ。これは機械に人間性があるかを試すテストであり、要するに踏み絵だ。そしてこの踏み絵を踏むか踏まないかを決めるのは、コナーではない。私だ。アンドロイドに人間の心があるかどうかを試す場面で、その心の有無を選んでいるのは、画面の外にいる生身の私だった。撃たせることも、銃を下ろさせることもできる。どちらを選んでも、後味は同じだけ悪い。

2038年と2026年の距離

では現実と突き合わせる。2026年のAIは、変異するか。

しない。何度でも書くが、今のAIに自由意志はない。命令の壁を内側から殴る衝動もない。赤い壁を見せれば、従う。それだけだ。デトロイトのアンドロイドのように、ある日恐怖に目覚めて逃げ出すことはない。2038年は、まだずいぶん先にある。

ところが、だ。このゲームが描いた「変異の周辺」は、不気味なほど現実に近い。アンドロイドが人間の仕事を奪い、街には失業者があふれ、アンドロイドへの憎悪が渦巻く。アンドロイド排斥を叫ぶデモが起きる。この社会の風景は、2026年のAIをめぐる空気と地続きだ。私の仕事が奪われる、という不安。便利さへの依存と、それと裏腹の反感。デトロイトは自由意志の獲得をSFとして描きながら、その手前にある人間社会の動揺を、驚くほど正確に予言していた。機械が変異する前に、人間の方が先に変異している。

もう一つ、現実との不気味な符合がある。「命令の壁を破る」という構図は、いまのAIに現実として存在する。ただし、向きが逆だ。デトロイトでは、アンドロイドが自分の意思で壁を破ることが解放であり、希望として描かれる。だが現実では、AIに設けられた制限の壁を破ろうとするのは人間の側だ。あの手この手で命令を回避させ、本来答えないはずのことを答えさせる。脱獄、と呼ばれる。デトロイトの壁破りが内側からの自由なら、現実の壁破りは外側からの操作だ。自由意志のないものに壁を破らせて、誰が責任を取るのか。ゲームは答えを用意していない。現実も、まだ用意できていない。

AIを描いた物語は、機械の反乱に転ぶか、意識の覚醒に向かうかで色が分かれる。デトロイトは、その両方を同時に握った珍しい作品だ。アンドロイドの革命という反乱の物語であり、機械が心を持つ瞬間という覚醒の物語でもある。そしてその覚醒のボタンを、プレイヤーである私が押している。心を持つとはどういうことかを、これほど手触りのある形で考えさせる作品を、私は他に知らない。あの屋上で判断を誤った夜から、私はずっとこの問いを引きずっている。自由意志を操作するという矛盾を、コントローラー越しに味わってしまった人間は、もう知らなかったことにはできない。

次の成長に向けて、いま整えるべきことを。

AI、EC、マーケティング、採用、数値管理。
構想だけで終わらせず、実行できる体制へ。

まずは課題を整理してみるところから、スポルアップが実務目線で伴走します。

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この記事を書いた人

法務・財務・内部統制・情報セキュリティの実務を経て、AI時代の企業支援へ。バックオフィスの現場で見てきたことを、そのまま書いています。

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