子供の頃、私の中では、世界が終わるのは「2008年」ということになっていた。『未来少年コナン』を観たからだ。物語の冒頭、低い声のナレーションがこう告げる。西暦2008年7月、核をはるかに超える超磁力兵器が、世界の半分を一瞬で消し去った、と。地軸は傾き、五つの大陸は海に沈む。当時の私にとって2008年は、気の遠くなるほど遠い未来だった。その2008年を、私はもう、とっくに通り過ぎてしまった。
『未来少年コナン』は、1978年にNHKで放送された、宮崎駿の初監督作品だ。いまの若いジブリファンの多くは、宮崎駿を『となりのトトロ』や『千と千尋の神隠し』から知るだろう。コナンを観たことのある人は、もうそう多くない。だが、宮崎駿という作家の出発点は、まちがいなくここにある。後の名作で繰り返し描かれる主題が、すべてこの一作に芽として詰まっている。AIが日常の道具になった2026年にこの出発点を観直すと、宮崎が四十年以上、同じことを問い続けてきたのが見えてくる。そしてその問いは、いま私たちがAIに向ける問いと、不気味なほど重なっている。
滅びの後に、二つの村があった
物語の舞台は、超磁力兵器の戦争から二十年後の地球だ。生き残った人々は、ばらばらの島で細々と暮らしている。主人公のコナンは、戦争の後に生まれ、祖父と二人きりで小さな島で育った、並外れた身体能力を持つ少年だ。足の指で鉄をつかみ、銛一本でサメと渡り合う。ある日、その島に一人の少女が流れ着く。ラナ。物語は、この二人を軸に回り始める。
この世界には、対照的な二つの場所がある。一つはインダストリア。戦争で失われたはずの高度な技術を一部の支配層が握り、旧文明の力を取り戻そうとする、薄暗い工業都市だ。もう一つはハイハーバー。太陽と風と土とともに、農業で穏やかに暮らす村。インダストリアの実権を狙う男レプカは、眠っていた巨大な飛行兵器ギガントを蘇らせ、ふたたび世界を力で支配しようとする。それを阻む鍵を握るのが、ラナの祖父ラオ博士だけが知る「太陽エネルギー」の秘密だ。
物語の芯にあるのは、滅びの後に残された強大な力を、人間がどう使うか、という一点だ。力を独り占めして支配に使うインダストリアの道か。みなで分かち合い、暮らしを立て直すハイハーバーの道か。コナンとラナは、迷わず後者の側に立って走り続ける。
同じ問いを、宮崎は何度も描いた
コナンを観たことのない人にも伝わるように、後の有名作を並べてみる。すると、ぞっとするほど同じ絵が現れる。
『天空の城ラピュタ』。古代文明が遺した空中都市ラピュタには、街ひとつを焼き払う雷の兵器が眠っている。それを蘇らせ、世界を支配しようとする男ムスカ。少年パズーと少女シータが、命がけでそれを止める。レプカがギガントを欲しがる構図と、そっくりそのままだ。
『風の谷のナウシカ』。かつて「火の七日間」で旧文明を焼き尽くした最終兵器、巨神兵。物語では、それを再び蘇らせて敵をなぎ払おうとする者が現れる。少女ナウシカは、力でねじ伏せる道に、体を張って抗う。超磁力兵器をめぐる争いと、同じ構図だ。
『もののけ姫』では、鉄を作るタタラ場が森を切り崩し、自然と人間が血を流してぶつかる。自然の上に築かれたインダストリアの、別の顔と言っていい。宮崎駿は、デビュー作のコナンから晩年まで、たった一つのことを描き続けた。人間が、世界を滅ぼせるほどの力を手にしてしまったとき、それを支配の道具にするのか、暮らしのために手なずけるのか。四十年以上、同じ岐路を、手を変え品を変え描いてきた。
2008年は来なかった。それでも
では、答え合わせをしよう。コナンが告げた終末の年、2008年7月。あの超磁力兵器の戦争は、来なかった。核を超える兵器で世界の半分が消える、その日付は、はずれた。宮崎の予言は、少なくとも暦の上では外れている。ひとまず、ほっとしていい。
だが、安心するのは早い。2026年の私たちは、別の「核を超える」と評される力を手にしてしまった。AIだ。使い方しだいで社会の土台を揺るがしかねない力だと、ほかでもない開発の当事者たちが真顔で警告する。超磁力兵器のように、一瞬で大陸を沈めはしない。だが、人の判断を、流れる情報を、人と人の信頼を、静かに作り替えていく力としては、引けを取らない。終末の日付は外れた。けれど、コナンが本当に描いていたのは、終末そのものではなかった。強すぎる力を前にした、人間の岐路だ。そしてその岐路のほうは、日付どおりどころか、いま目の前に、くっきりと現れている。
私たちの前にも、インダストリアとハイハーバーがある。AIという力を、一部が握り、効率と支配のために振り回す道。レプカは、いつの時代にもいる。もう一つは、その力をみなで分かち合い、暮らしを豊かにするために手なずける道。どちらに転ぶかは、まだ決まっていない。コナンの世界で、ラオ博士の太陽エネルギーが電力にも兵器にもなりえたように、AIもまた、振り向ける先しだいで、人を照らしもするし、焼きもする。
コナンには、人間に反旗をひるがえす機械も、自我に目覚めるロボットも出てこない。出てくるのは、滅んだ世界に残された大きな力を前に、それをどう使うか迷う、生身の人間たちだけだ。この作品が問うているのは、機械が何になるかではなく、人間が力に何をさせるかだ。だからコナンは、AIをどう描くかという問いの、もっと手前に立っている。そして手前にあるぶん、いちばん逃げ場がない。
では、私はどちらの村の住人でいたいか。AIを手放す気はない。仕事の多くは、もうこれなしでは回らない。肯定している。だが、便利さに任せて何もかも委ねた瞬間に、人はインダストリアの市民になる。力に全部を預け、自分で考えることをやめた住人に。私はそうはなりたくない。せめて片足は、ハイハーバーに残しておきたい。道具は使う。けれど、ハンドルまで渡すつもりはない。同じ力が超磁力兵器にも太陽エネルギーにもなるのなら、それを兵器にしないために要るのは、新しい技術ではなく、使う側が正気でい続けることだ。
子供の頃に観たコナンの2008年は、来なかった。それは、幸運だった。だが宮崎駿が四十年描き続けた岐路のほうは、日付を変えて、ちゃんと私たちの前に来ている。コナンとラナは、力に飲まれた大人たちのあいだを、自分の足で走り抜けた。あの二人がまぶしかったのは、並外れた力のせいではない。どんなときも、何のために力を使うのかを、見失わなかったからだ。それはきっと、2026年の私たちにも、まだできる。
次の成長に向けて、いま整えるべきことを。
AI、EC、マーケティング、採用、数値管理。
構想だけで終わらせず、実行できる体制へ。
まずは課題を整理してみるところから、スポルアップが実務目線で伴走します。
